サーキュラーエコノミーへ向けての実践とエコシステム構築
サーキュラーエコノミーへ向けての実践とエコシステム構築
本フォーラムでは、京都におけるサーキュラーエコノミーの実践者らへの支援を強化し、その活動をさらに広げるための具体的な施策を探ります。多様なステークホルダーが、未来の社会像を浮かべて有機的に連携することにより、個々の力を結集し、都市全体のレジリエンス向上を実現するための具体的なアクションプランを策定します。
佐伯啓思(社会経済学)×村瀬雅俊(生命基礎理論)×佐伯剛(風の旅人編集長)
混迷の時代と言われて久しい。ニヒリズムという言葉は、先の大戦後、高度経済成長に無我夢中で取り組んでいた時期を終え、経済成長に行き止まり感が出て次の目的が見えなくなった頃に既に出ていた。自分達が何をどうしたところでこの世界は変わる筈はないという無気力にとらわれ、自分の利益や楽しみにしか関心を示さないという状況。しかしながら、そのように視野が狭くなって世の中の変化の表層ばかり追いかけているうちに本質を見誤り、世の中の変化に翻弄され、結果的に自分の利益も楽しみも失うという悪循環に陥ってしまうこともある。
もう少し時代を遡れば、19世紀に、フリードリッヒ・ニーチェが、「神は死んだ」という言葉で絶対的な神や絶対的な真実への純粋な信心がなくなって現実の生や世界が無価値で無意味になっている状況を表した。
ニーチェは、そうした状況下で人間が取り得る態度を二つ示した。
1.消極的・受動的ニヒリズム。何も信じられないと諦め、周りの状況に流されるままに生きる態度。
2.積極的・能動的ニヒリズム。自ら積極的に目的を作り出し、それがたとえ仮像であるにしても、一瞬一瞬を一所懸命に生きる態度。
ニーチェは、消極的ニヒリズムを堕落ととらえ、積極的ニヒリズムを肯定し、そのうえで、超人的な意志によって今この一瞬の肯定すべき生を繰り返せるという永劫回帰の思想のもと、めげることなく今この一瞬の為に生きようとし、時代が進むにつれてよくなっていくという西洋的な進歩史観すら否定した。すべての善悪(絶対的であれ相対的であれ)の優劣は人間の主観的な思い込みにすぎず、すべてのものは平等に無価値であるが、その絶対的な無から新価値を創造することができると考えた。
しかし、そうしたニーチェの思想は、反西欧文明、反権力、平等の為という大義名分のもと、永劫というよりは刹那的な衝動による暴力行為と結びつきやすい。
現在、イラクやシリアで残忍な殺戮行為を繰り返す過激派組織イスラム国に欧米などから数多くの人々が参加している。こうした過激な活動に参加するのは、かつては生活環境に恵まれない若者が多かったが、現在は、中流・富裕層も多くいると言われる。
彼らがイスラム国に惹かれる理由の一つとして、祖国での退屈な生活から脱け出して、生きる事の意味を取り戻したいからだとも言われる。
日本社会は、そうした人生の退屈を紛らす為に、娯楽と消費のサイクルを早め、それらに意識を捕われることで、ニーチェが説いた”今一瞬の肯定すべき生”の仮像を作り出し、人生における大きな目標の喪失という絶望と退屈を解消しようとした。
パーティ騒ぎのように”今を楽しく”という風潮の中で、深く考える”暗さ”より、何も考えない”明るさ”の方が人気となった。そのような享楽的な仕組みで、刹那的で自暴自棄な暴力衝動から意識を逸らすをことができた。
しかしながら、経済が順調の時には何とか通用した娯楽と消費による解消策が、長く続いている経済不調によって、次第に雲行きが怪しくなってきた。
中国や韓国に対する敵対意識を煽りながら経済優先を唱える安倍政権の人気取り政策は、デフレ脱却、賃上げ、消費活性化という狙いだけでなく、年金制度の行き詰まりをはじめ、この国の不確かな未来のことを深く考えさせず、人々の不満や不安の矛先を逸らせる為の政策とも言える。そうした仮像によるゴマカシや問題の先送りをいつまで続けられるのだろうか。放っておけば、仮像ではなく「国家の平和の為に戦うこと」が、この世に生を授かった崇高なる意味だとすりかえられる可能性だってある。
私たち人間も、生まれて死んで世代交代が宿命付けられている生命体である。であるならば、今日の人間の様々な営みは、果たして、生命本来の在り方から見て、どこに問題があるのだろう。それとも何も問題はないのだろうか?
そもそも生命活動というのは、どういうものか?
生命は、この地上に実に多彩で複雑精妙なシステムを作り上げており、それは、人類の歴史400万年を遥かに超える歳月のあいだ連綿とつながっている。
生命界の中の個々の生物は、人間が作り出した機械製品のように部品(部分)と製品(全体)という関係ではなく、全体の在り方が絶えず部分に働きかけ、その影響を受けた部分が全体の在り方を左右していくという相互関係のダイナミズムを備えている。そして、どんな個でも全体のサイクルを何らかの形で担っているが、その影響力の大小の差は、流れの中でたまたま生じては消えていく渦巻きの大小の違いのようなものにすぎず、悠久の全体から見れば、その一瞬の差は分別するほどのものではない。
人間もまた同じだ。しかし人間は他の生物に比べて若干違うところがあり、それは”意識の可塑性”ではないだろうか。他の生物は、物心がついた時に形成されている”世界の捉え方”を修正しながら生きていくということは、ほぼないと言い切れると思う。痛い目にあえば、それを避けるという条件反射のような変化は見られるが、自分の意志によって避けていた対象のことをさらによく理解しようと努め、それまでの自分の態度を改めるという意識変化を起こす生物は存在しないだろう。(個体ではなく、種全体の可塑性は、他の生物も持っており、それが環境対応力となる)
簡単に言ってしまえば、”気持ちの持ち方次第”と思うことができる生物は人間だけだ。そのように意識変化を起しやすい個が集まって全体を作り、その全体からの働きかけで、さらに意識変化を起すというのが人間世界だとも言える。
とすれば、ニヒリズムというものも、そうした可塑性的な意識の持ち方の一つであり、そうした意識の集合としての社会や時代の空気であり、さらにその社会や時代の空気が個人に影響を与えているということになる。
ならば、一体どういう人間の思考の仕組みや、社会の仕組みがニヒリズムをもたらしているのか。ニヒリズムに陥り続けると生物としてどうなっていくのか。ニヒリズムからの脱出を志向して行なわれているようにも見える各種の活性化の試みが、果たして本当にニヒリズムの呪縛から解放させてくれるものなのか。不安や不満や空虚を、束の間、紛らすために利用されている可能性はないか。
西欧のように絶対的な神や永遠普遍の真理というものを想定せず、万物流転、諸行無常の精神の中で育まれてきた日本の歴史文化は、ニーチェの説く積極的ニヒリズムや消極的ニヒリズムとは異なるスタンスで、ニヒリズムを無化する方法を秘めているようにも思われる。
このたびの第3回風天塾で、経済発展などという言葉によってゴマカされている現代人の心の中に潜むニヒリズムの問題を掘り下げていく議論が出来ればと思う。
【日時】
10月19日(土) 午後2時〜 (開場1時半)
【参加費】
Impact Hub kyoto 会員 1500円 / 一般 2000円
*ワンドリンク(ビール)付き。アルコールの飲めない方は、申し込み時に連絡ください。ソフトドリンクをご用意します。
【申し込み】
【主催】
風の旅人